岡山南部の東大川(吉井川)と西大川(旭川)の間の堤防工事も順調に進み、
沖新田の開拓も完成間近、いよいよ最後の潮止め工事となった時、
何度やっても翌日になると崩れるという繰り返しでした。
人々は、
「これは海の神様の龍神さまのたたりじゃ。龍神さまのおいかりをおさめるには人柱をたてにゃおえんぞ」と
信じ込むようになっていました。この時代には、海や川を工事する場合、水神へのいけにえとして、
若い娘を人柱として水底に沈めるというならわしがあったのです。
この話しを聞いた永忠は大変悩みました。家臣にも相談しましたが、誰にも名案が浮かびません。
ある夜のこと、会議が全く進展せず一同静まりかえっていた時、永忠の屋敷で奉公している
『キタ』という娘が、「私でよろしければ、人柱にたちましょう」と申し出たのです。『キタ』の強い決意に
心を打たれた永忠は、「すまぬ、そなたが人柱にたってくれれば、きっと龍神さまも静まって下さるであろう。
そしてこの工事が完成すれば、何千何万の人々が喜ぶであろう。また、新田ができたあかつきには、
そなたを氏神さまにおまつりして、いつまでも感謝する」と約束しました。

『キタ』は前日から身を清め、人々が見守る中で、潮止め工事の海辺から、白装束・はだし姿で
静かに海中に身を投じました。
すると不思議に潮流静まり、潮止め工事は完成したということです。
現在、おきた姫はおきた姫神社としておまつり申し上げております。